ギフテッド教育

ギフテッド教育

214 greeting「ギフテッド」というのは、一般的に「先天的に平均よりも顕著に高い能力を持っている人のこと、またその能力を指す。その人物における高能力の傾向は誕生時から生涯にかけて見られる。外部に対する世間的な成功を収めることではなく、内的な学び方の素質・生まれつきの学習能力を持つことを指す」(ウキペディア)とされています。

 

米国では約三十八州に、何らかの「ギフテッド」プログラムがあると言われます。通常の学級では必要が満たされない生徒への救済措置として、障害のある生徒と同じ「特殊教育(special education)」という位置づけで、公立学校のシステムに組み込まれているのです。

 

それら「ギフテッド」とされる子供たちの特徴を表すのによく用いられるのが、次の分類です。

成績優秀者                               ギフテッド学習者
答えを覚えている                          思いがけない質問を持ち出す
興味を持つ             好奇心旺盛
注意深い                       選択的精神的にはまり込む
先を行く考えを生み出す             複雑で抽象的な考えを生み出す
集団のトップ                                         集団を超える
簡単に学ぶ                          既に知っている
6―8回の繰り返しで習得          1―3回の繰り返しで習得
課題を時間通りにこなす           課題のプロジェクトや拡張を導く

Aを取る                                                   成績はモーティベーションにならないかもしれない

 

 

選別方法、選別基準

「ギフテッド」とされる子を選別するには、IQテストと学力テストが用いられています。果たしてそのような方法で「ギフテッド」が見出せるのかと、様々な議論がされていますが、現在ほとんどの州の「ギフテッド」プログラム入学審査が、これらのテストに拠っています。

 

ここアラスカ州アンカレッジの小学校には、「イグナイト」と「ハイリーギフテッド」と呼ばれる「ギフテッド」プログラムがあります。

 

「イグナイト」プログラムは、アビリティーテスト(IQテストの縮小版のようなもの)と学力テストで96パーセントタイル(全国の同年月の子供達と比べたもの)以上の子供達を集めたものです。ほとんどの小学校に「イグナイト」プログラムがあり、「ギフテッド」教育専門の教師が、週に一度授業をします。

 

「ハイリー・ギフティッド」プログラムは、学力テストが98パーセントタイル以上、アビリティーテストで99パーセンタイル以上、IQテスト99.5パーセントタイル以上の子供達を集めたものです。アラスカに一校のみあり、アンカレッジ、および周辺地域から集まった約百五十人近くの子供達が、週五日間終日通うプログラムです。普通の公立小学校内に設置されていて、プログラムの生徒数は全校生徒の三分の一ほどの割合です。

 

中学・高校になると、「ギフテッド」や「アドバンス」授業をより多く提供する学校も増え、選別はIQテストよりも、全国統一学力テストの結果に拠るなど、学力重視になっていきます。

 

 

「ハイリー・ギフテッド・プログラム」の内容

プログラムの内容は、詰め込みでなく掘り下げ考えることを重視し、生徒一人一人のレベルに合わせ、学年を飛び越えて学ぶことができます。「退屈させない」ためにチャレンジ満載で、方式を教えるよりも方式を考え出すような教え方をし、ストレートに答えを示すよりも、「なぞなぞ」のような形式で答えを自ら導き出すよう働きかけます。

 

低学年からイカやヘラジカの目を解剖したり、様々な分野のかなり専門的な用語も学び、福祉関係のボランティアが取り入れられていたりと、毎日濃い授業内容です。進む速度も速く、「通常の学校が三日かけてすることを一日でします」と、子供達の担任の先生がおっしゃっていました。

 

教師は皆「ギフテッド教育」専門の資格を持っています。クラスは十人から二十人前後と少人数で、感情面や社会性の養育を専門とするカウンセラーも、配属されています。

 

私と夫がこのプログラムを選んだのも、そのカリキュラム内容のよさ、一人一人の生徒に対する待遇の良さが理由でした。四人の子供達も、楽しそうに通っています。

 

 

IQというものさし 

子供達が五歳から六歳にかけて、心理学者による一対一のIQテストを体験しました。テストが終わると、世界共通という例題をいくつか見せてもらい、スコアやその子の特徴についての説明を聞きます。

 

IQテストを見て思ったのは、IQテストというのは、人の持つ知性の一部を測るための、「ものさしの一つ」であるということです。「ものさし」に拠って、高い低い長い短いという順列は生まれますが、「ものさし」を変えるのなら全く違う高い低い長い短いになるはずです。

 

山間部や離島などの辺境地域に暮らす子の方が、都市部に暮らす子よりも、IQテストのスコアが低いという比較結果を見たことがあります。それでも、鳥の声を聞き分けられるか、海の状態で魚の群れの動きが分かるか、空の色で明日の天気が分かるか、野生動物の糞を見てその動物がどんな状態であるか分かるか、仮面を彫るのに最適な流木を見分けられるか、もしそんな「ものさし」で、辺境の村々に暮らす子ども達を測るのならば、とてつもない高スコアをはじき出すかもしれません。IQテストとは、「普遍的な頭の良し悪し」を測るわけではなく、一部の限られた知能を測る「ものさしの一つ」なのです。

 

多重知能理論(Multiple Intelligence)を提唱した心理学者のハワード・ガードナー(Howard Gardner)博士は、IQテストというのは、人が持つ様々な知能の内、「言語知能」と「論理数学的知能」の二つを測ることができるのみだとします。ガードナー博士が挙げるその他の知能、「音楽的知能」、「身体運動的知能」、「空間知能」、「対人的知能」、「内省的知能」、「博物的知能」、「霊的知能」、「実存的知能」などの「多重な知能」は、IQテストでは測ることができないとするのです。

 

また、十二歳頃までのIQテストのスコアには、年齢が大きく影響します。前倒しで問題が解けるのなら高いIQとされるのです。だからといって、それらのスコアが全く変わらず一生続くということではありません。後になって周りが追いつき、単に早熟だったということもあり得ます。幼稚園から大学まで教えたことがあるというIQテストを専門とする方に、テストしていただいたことがありますが、「これらのテストの内容は全て、後何年かすれば必ずできるようになるものばかりなのです」とおっしゃっていました。

 

また「スタンフォード・ビネー」というIQテストを考え出した、アルフレド・ビネー(Alfred Bine)博士は、IQテストを受けた子供達が成人してからの様子を調査し、子供時代に高得点を出したグループから外れた二人が、成人してからノーベル賞を受賞していたという結果もあります。

 

小学生時分のIQスコアが示すのは、時間的スパンで捉えたとしても、その子が人として持つ能力のほんの一部に過ぎないといえるでしょう。

 

また特に子供に対してのテストの場合、テスターの態度や姿勢などもスコアに大きく関係すると体験から思います。無表情で問題を与え続けるテスターよりも、ゆったりと笑顔で励ましの言葉も用いながら問題を与えるテスターの方が、子供達も答えやすいのです。どんな状況でも気にならない子もいれば、相手の表情や仕草に敏感な子もいるものです。一つ問題を終え次の問題にいくまでの間に、テスターがため息をついたのが気になり、なかなか次の問題に集中できない、そんなこともあるでしょう。特に小さな子のIQテストとはゲームのようなものも多く、ゆったりとリラックスした雰囲気の方が、子供達も最大限の力を発揮できます。

 

また採点の仕方でもスコアは上下します。できたできないと白黒に分けられない問題も多いものです。迷路の枠に鉛筆が触れていた、ブロックが少しゆがんでいる、そういったことも細密にマイナスにするのとしないのとでは、スコアも変わってきます。地球儀を見せられ、「地球」と答えたら誤りで、「地球儀」だと正解だと言われ、納得ができないと他の心理学者にテストをしてもらったら、全体的スコアも随分と上がった、知り合いからそんな話を聞いたこともあります。

 

また子供というのは体調や気分によって随分とできるできないに差がでるものです。鼻水が少し出ていたり、朝兄弟げんかした、家を出るとき転んでしまった、そんなことで問題へのやる気がへこんでしまうこともあるものです。

 

こういったことを考えるとき、子供を数時間テストしただけで、その子の能力がどうこうという話になること自体、おかしなものです。それでも、恵まれた学習環境の提供されるプログラムに入るための必須条件ということで、テストを受けさせてきたというのが、本当のところです。

 

 

「ギフテッド」という名称への違和感

IQテストの特徴を見るとき、現在の「ギフテッド」プログラムに通う子供達とは、限られた知能に、早い内から秀でた子供達、テストの時に十分な力を出せた子達ということになるでしょう。ならば、「ギフテッド」プログラムというよりは、「言語を操ることや論理的思考が得意な子達」や「成績優秀者」のプログラムと言った方が適切だと感じています。確かにそれらは、今日の学問的思考の根幹的能力ともいえるかもしれません。またそれらの分野を得意とする子供達を集めて、集中的に能力を伸ばす環境を提供するのは、素晴らしいことだと思っています。

 

それでもそれら特定の限られた範囲内で結果を出した子供のみが、「ギフト」の与えられた「ギフテッド」と呼ばれることには、違和感を感じています。ギフト」は全ての子供に与えられています。そして本来の教育の現場とは、ギフトがあるないとより分けるのではなく、一人一人の異なる「ギフト」を引き出し伸ばしていく場であるべきではないでしょうか。そしてより多様な才能を掬い取り伸ばしていくことができる時、これからの技術や学問なども、より豊かに発展していくのではないかと思っています。

 

 子供達には、全ての人に「ギフト」が与えられている、今あなたたちは、努力と多くの人の助けと運によって、たまたまこうして恵まれた学習環境を与えられているけれど、その環境に感謝して、少しでも身に着けたことを周りに還元していけるといいね、そう話しています。

 

 

先天的?後天的?

では「成績優秀」や「言語を操ることや論理的思考が得意」というのは、「先天的」「遺伝的」に与えられた「ギフト」なのでしょうか? 私自身は、その子の素質とその素質を伸ばす環境というコンビネーションもまた、恵まれた「ギフト」なのだと理解しています。素質があったとしても、働きかけがなければ伸ばしていくことはできません。またその素質を現時点目に見えるような形で捉えることができないとしても、働きかけによって伸ばしていくことは可能でしょう。

 

こんな米国デューク大学での実験があります。千人の生徒を対象に「ギフテッド」とされる生徒を教えるメソッドを使ったところ、しばらくして「ギフテッド」と見なされる基準に二十パーセントの生徒が達したといいます。普通のメソッドを用いたグループでは、十パーセントの生徒が基準に達したのみだったにも関わらずです。

 

また英国の学校で、学期の初めに、最下位のクラスと最上位のクラスの情報を、誤って入れ替え教師に伝えたところ、学期の終わりには、上下の順位が入れ替わっていたという出来事もあります。

 

周りの大人が、その子の能力や可能性を信じ伸ばそうとすることで、子供の能力は伸びていきます。現在、教育学の分野でも、先天的な素質と育つ環境が相互に作用し合うことで、「ギフテッド」の子供が育つという説が主流のようです。

 

 

親が「エリート」?

「ギフテッド」プログラムに子供を通わせる親は、教育レベルも高く高収入で社会的地位のある専門職を持った、いわゆる「エリート」の割合が、普通の学校に子供を通わせる親に比べ多いということが聞かれることもあります。確かに、親が成績優秀であったりIQ的能力に優れているのならば、子供達の持つ素質に加え、それらの能力を伸ばす環境が作り出される場合も多いでしょう。そして経済的余裕があるのならば、その子を伸ばす環境を最大限整えることも可能です。

 

プログラムに通う周りの子供達を見ていると、確かにそれらの家庭環境に恵まれている場合も多くあると気づきます。授業で政治について学んでいるから、週末にワシントンDCに行き知り合いの議員に面会してきた、メキシコのことを地理で学んでいるからクルーズで旅してきた、テスト勉強で少し煮詰まったから、南の島にバケーションへ行ってきた、一年休学して家族で世界一周してきた、そんな豊かなリソースを日常的に子供に与える余裕のある、教育熱心な家庭もあります。

 

それでも、実際は「ギフテッドとされる子供達はあらゆる経済的社会的地位、エスニック・人種グループに見られる」(Dickinson, 1970)と言われています。息子さんをプログラムに通わせる移民の知り合いは、経済的に難しい状況に暮らしながらも、「私達はほとんどの人々がテレビを見ている間に、世界地図を広げ、世界の人々がどんな暮らしをしているのかを話し合うわ」そう言っていました。例えリソース的には恵まれなくとも、親が日々子供に向き合う姿勢によって、その子の能力を開花させることができるのだと、こうした周りの親御さんたちを見ていて励まされます。

 

我が家はまだまだ子育ての途上にあり、どうしたら子供達を力を伸ばすことができるかと、日々試行錯誤している状況ですが、いわゆる「エリートコース」からは、ほど遠い暮らしです。

 

私自身は、子供時代から学校の勉強への関心がとんと続かず、成績もアップダウンを繰り返し、中学時代は高校は夜間に行き昼間は働きたいとその本当の大変さも分からず親に言い、結局高校を出て地元の私立の大学に入学したものの、学部時代のほとんどをアルバイトしてはお金を貯め世界を安旅して過ごすことに費やしました。学校の勉強にはどうしても興味がもてなかったのですが、それでも考えることや読書が大好きで、研究者になろうと奨学金を借りつつ大学院に進んだのでした。そして三人目の子供が生まれてからは、外での仕事も止め、育児に駆け回る毎日です。

 

夫といえば、大変な家庭環境に育ち、「重度のディスレキシア(読書障害)」もあったことから、学校の勉強は全くだめ。十八歳で米国に移住してからレストランで皿洗いなどしながら英語をゼロから学び、ピアノや演劇などのクラスをとりながらコミュニティーカレッジ(誰でも入学OK)に八年も籍をおいた後、ようやく今取り組んでいる専門分野へ進むことになります。それでも夫を見ていて気がつくのは、学校の勉強などは全く苦手ですが、子供のニーズを敏感に察知し、子供たちの目の前に適切な高さのハードルを用意し、励まし飛び越える楽しみを体験させるのが得意であるということです。また発想も豊かで、私には真似できないほど、子供の目線に立った献身的な父親です。

 

 

子供の力を伸ばすには

プログラムに子供を通わせる周りの方々を見ていて思うのは、親がいわゆる「エリート」かどうかということに関わらず、小さな頃からその子の好奇心を大切にし、興味を持つことに対して一つ越えたのならばまた次へと、陰からハードルを少しずつ高くしてやることに長けている方が多いということです。

 

プログラムに入っていようが入っていなかろうが、子供の能力を引き出し伸ばす子育てに共通するのは、周りに比べてのハードルの高さではなく、その子自身に向き合うことで調節される高さを用意し、自分でできた!という喜びを繰り返し繰り返し体験させ続けることだと思っています。目先の結果よりも、できるようになっていく過程を、親子で楽しんでいるような家庭が、子供の持てる才能を最大限引き出し伸ばしていけるのです。

 

 

努力の継続

家の子供達を振り返ってみても、「ギフテッド」の特徴としてよく挙げられる、「小さな頃からこれが他の子より際立っていた!」、そういったことはほとんど思い出せません。歩くのも一歳過ぎ、言葉も達者だったというわけでもなく、文字数字も三歳四歳から「教えられて」覚え始めましたし、パズルや何かを組み立てたり迷路などが大好きでしたが、それらも一緒に何度か遊ぶ内にそうなっていったのです。

 

敢えて言うのなら、人の気持ちやその場でどう振舞ったらいいかについては、やけに敏感だったかなとは思います。これは「過度激動」と呼ばれる「ギフテッド」の子によく見られる特徴とも言えるかもしれませんが、やけに泣き虫だったり、過剰にお友達に気を遣ったり、小さな頃から周りのサインや張り紙を読んで欲しがり、自分はここで今何をしたらいいのかと気にしたり。もっと伸び伸びしたらいいのにと気の毒に思ったものです。といって、それらの特徴も人の間で揉まれる内に、過度という程ではなくなっていきました。

 

それでも勉強面はというと、周りの子がぽんぽんと覚えていくことも、ああこの子達には何度か繰り返す必要があるんだな、よくそう思ったものです。そこで例え人より何倍も時間がかかったとしても、こつこつ歩き続けていこう、そう覚悟を決め歩き続け、そうして気がついたら、「ハイリー・ギフテッド」といったラベルをいただいている、今までの歩みをまとめると、そういったことのように思います。

 

今、こうして「ギフテッド」とされる子供さんを持つ家庭と付き合う機会も多いのですが、「一回で覚えてしまって」「いつの間にかできるようになってたんですよ」、そんな言葉を聞くたびに、感心してしまう私達なのです。

 

家はこうして「こつこつ続ける集団」ですが、プログラムの中には、ああこういう子を天才というのかな、そう思うような子も確かにいます。それでもよく見ていると、その子達も、かなりの努力をしていることに気がつきます。しかもその努力というのも、ものすごい食いつき方と、勢いと、迫力なのです。そしてその勢いを情熱をキープし続けられる。「天才は99パーセントの努力」、そして「努力を努力と思わないのが天才」それは本当にそういうことなんだな、彼ら彼女たちを見ているとそう気がつきます。

 

要は、ついつい比べて落ち込んだりしてしまうものですが、周りをそれほど気にせず、その子にあったペースで、やり方で、こつこつ続けていくことです。周りのママやパパさん達が、自分の子供さんを指して「この子はどうせだめなのよ」と言うのを聞くことがありますが、家の子達の始まりよりもずっとずっとできてますよ、そう言いたくなることが多くあります。

 

歩き続けていく過程で、高いテストのスコアや、「ギフテッド」というような名称を手にすることもあるかもしれません。それでもそれらは目的なのではなく、その子の持つ才能が開花する過程に過ぎません。「ギフテッド」プログラムを卒業する子供達の進路も様々です、ストレートに大学に行き専門職につく子もいれば、シェフになりたい、まずは世界中を旅したいと、大学に進むことなく独自の道を歩いていく子もいます。

 

 

違いと差別

日本では、「ギフテッド」プログラムが取り入られるのは難しいと言われています。頑張れば皆が同じ道で同じレベルになれるはずだという「平等主義」が、行き渡っているためともされます。

 

一方、異なる人種や文化背景を持った人々が隣り合わせで暮らす米国では、個々人は違って当たり前という前提から始まっています。そこでアカデミックや論理的思考に生まれつき優れた人々がいても、当たり前だと考えるのです。そしてそれぞれが違う道で、それぞれに合ったレベルに到達するのが理想とされることから、ハンディキャップを持つ人々と同じように、「ギフテッド」の人々のニーズに子供時代から答えるべきだということになるのです。個々人の「違い」は「違い」であって、それに上下優劣をつける「差別」とは同じではない、私自身もそう思っています。

 

同じような熱意ややる気のある子供達だけを集めて学習するのならば、それは確かにどんどん進んでいくでしょう。それでも同時に、今のシステムの中で萎えてしまっている「やる気」を引き出す教育も、必要だと思っています。やる気は、「できた!」の喜びの繰り返しで培われていきます。今はやる気がなえている子には、他と比べることなく一度ハードルを低くして何度も何度もその子に合った「できた!」を体験させていくのも一つの方法です。夢中になって気がつけば、周りとは全く違った能力を花開かせているかもしれません。

 

 

より多様なものさしを

子供の得意分野を伸ばすためのプログラムがあることは、素晴らしいと思います。ただ「成績優秀者」や「言語能力や論理数学的能力に秀でた者」だけを対象とするのではなく、様々異なる分野を伸ばすプログラムがあるのが、理想だと思っています。

 

勉強が得意な子もいれば、スポーツや音楽が得意な子や、人付き合いや人の気持ちを察するのに優れた力を発揮したり、想像力溢れて既存の枠からはみ出すような子もいます。机上の「勉強」だけでなく、多様な得意分野を捉えることのできる、「多様なものさし」が教育現場に導入されるのならば、より多くの子供達がもっと生き生きとし始めるでしょう。そしてこれからの学問も技術も、もっと豊かになるはずです。

 

子供達も、様々違った個々人の得意分野を伸ばすことで、より自信がつき、他の分野も向上していくということもあるでしょうし、何か一つのことに秀でていても、勉強が得意だけれど運動も楽しむ時間を持ってみる、人の気持ちを察するのは得意だけれど、言語面の勉強にも興味を持ってみようといったように、バランスを取る機会にもなるかもしれません。また何か一つのことに際立って秀でていなくとも、様々な分野の組み合わせによって、その子にしか歩くことのできない独自の道が築かれていくこともあるでしょう。

 

カリフォルニア州などでは、ガードナー博士の研究に基づき、子供達の異なる個性を伸ばすため、成績優秀者や論理的思考に優れた者だけを対象とするのではない、様々な「ギフテッド」・プログラムの試みがあると聞いたことがあります。このカリフォルニアの試みのように、子供一人一人が持つ異なるギフトを伸ばし育てるために、多様な受け入れ場が整えられることを願っています。

 

まずは、大人一人一人が「多様なものさし」でもって、子供達を見つめることから始めていきたいです。多様なギフトを合わせ創り出される未来の世界とは、画一的なものさしのみが評価される現代の世界とは比べ物にならないほど、豊かで魅力ある世界となるでしょう。ギフトは、すべての子供に与えられています。

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