社会・国・世界

手持ちの「資本」を工夫して、不公平さを駆け抜ける

095今日はちょっと観念的な話になってしまいましたが、自分の考えの土台をまとめ中です。
 
5番目の子がとうとう学校へ終日行くようになりと、私自身にとっても大きな一区切りを迎え、これまでひとまず横に置いておいたような考えも、どんどん噴出す今日この頃です。知り合いに、15年抑えてきたものがあるだろうねえ、としみじみ言われましたが、確かにです。少しずつ整理していきます。
 
まだまだ子育て嵐の最中であることには変わりない、と自分に思い出させつつ。(笑)
 
付き合っていただいて、感謝です。
 
 
 
子育てをする中で、ああ、あれもしてやれなかったなあ、これもしてやれないなあ、そう思うこと、あります。
というか、そんなことばかりと言ってもいいかもしれません。
 
 
1日24時間、身体は1つ、資本にも限りがあり。
親がしてやるといいなと思うことが、あれこれできるわけでもなく、
子供達がしたい!ということの、半分もさせてやれてないかもしれません。
 
 
「資本」というのは、金銭的なものだけではありません。
「文化資本」という言葉が、社会学にはあります。
 
1.絵画や楽器や本など形あるもの
2.学歴や資格など制度的なもの
3.慣習や美やセンスや言語能力や振舞い方など身体化されたもの
 
それらも、「資本」です。
 
社会学者のブルデュー氏は、これらの「資本」に恵まれた家庭で、恵まれた「資本」を持つ子供が育ち、社会は再生産されていくという仕組みを明らかにしています。
 
本に囲まれ本好きな子が育ち、今の制度内で上に行った者は上り方を知っており、社会的に価値あるとされる振る舞いをする者に囲まれ育つならば、そうした振る舞いが身につく。資本を多く持つものが、資本を多く持つ子供を育てていく。世の中とは、いかに不公平に再生産され続けているかと。
 
実は、ブルデュー氏の思想は、20年近く前、私の学部時代の卒論のテーマでした。
 
 
 
でも、社会構造というのは凝り固まった静態的なものではなく、常に繰り返し作り変えられる動態的なもの。そしてその構造に暮らす1人1人の行為者(エージェント)が、構造を作り変える担い手でもあります。
 
行為者として、生まれ持った資本を何倍にも膨らませられることもあれば、恵まれた資本を使い果たしてすっからかんになってしまうこともある、そうした構造の「ズレ」を生じさせる可能性もあるわけです。そしてそんな「ズレ」の可能性も、昔に比べ、どんどん大きくなっています。行為者として個人が手にする「選択肢」は、昔に比べ格段に増えているのです。
 
 
といって、ある程度に達っせないのは「自己責任」「頑張りが足りないからね」、「達せないのを周りや人のせいにしないでね」と誰もがあっさりと言ってしまえるほど、「資本の不公平さ」は甘くもないし無くなってもいない、そう思います。資本を文化資本まで広げて見るとき、目の前の相手がどれほど苦労してそこに立っているかなんて、本当になど理解できないもの。10の内9を初めから持っていたのか、10の内0から始めたのか。互いに目に見えるのは、その到達地点だけです。
 
 
 
何を言いたかったかというと:
 
不公平さは歴然とあります。それを、そんなものはないとファンタジーで包んでもしょうがない。といって、もうどうしようもないとしゃがみこんでもしょうがない。
 
自身は「構造を作り変え続ける行為者」ということを思い出し、今与えられた資本で、できる限りのことにフォーカスするしかないな、ということです。
 
親としてできることとは、与えられた手持ちのカード(資本)を見つめ、「じゃあこうしたらどうかな、だったらああしたらどうだろう」そう工夫しながら、進み続ける背中を見せていくこと。
 
たとえ到達地点が、華やかに人目を引くものではなかったとしても。少しずつ進む足取りを喜び、祝う姿を、見せてやること。
1歩で到達する人もいれば、自分は100歩行く必要があるかもしれないんですから!「到達地点」という同じ指標で、比べないこと。
 
そうして歩き続ける背中を見て育つ子供達が、将来、不公平さの中に何度倒れることがあったとしても、ああそれでも、ママは立ち上がって歩き続けていたなあと、思い出せるように。
 
 
 
読んで下さり、ありがとうございます。
 
それでは皆様、今日も素晴らしい日をお送り下さい!
 
 
 

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