ディスレクシア

ディスレキシア、弱点の認識と人並み以上の努力と

Dislexia新学期始まり、子供たちの通うプログラムの新しいコーディネータと話し合った。以前少しディスレクシア(読字障害)について書いたのだけれど、次女の様子について。新学期になると、その子のレベルを見るためのテストなどが様々されるのですが、やはり、ぽこりぽこりと穴が開く。十分にその問題を解く能力があるはずなのに、できてなかったりする。インストラクションの読解に関わることなのだろうと。そしてそれが、日本語スペイン語英語とこんがらっているためなのか、ディスレクシアのせいなのか、年を経るごとにできるようになっていくのものなのか、今何らかの対処をするべきなのかと話し合う。ディスレクシア専門家による検査をしてもらい、具体的に改善に向けできることをしていこうということに。

 

ただディスレクシアといっても、その症状は様々で一言でくくるのは難しいとされます。よく挙げられる典型的な例は文字が反対に見えたり、最初と最後の文字が入れ替わって見えたり、スペリングが苦手だったりということですが、次女は、しっかり読めスペリングも得意な方で字もきれい。それでも読んだすぐ後に忘れてしまったり(短期記憶能力の欠如もディスレクシアの特徴とされる)、一単語一単語が浮き出て文章の全体像が見えなくなったり、他のディスレクシアの症状には当てはまるものが多い。

 

米国では10人に1人、遺伝率は26から65パーセント!と言われるディスレクシア。夫と義父が重度のディスレクシア(夫は中学生になって初めて文章を読めるようになり、高校になるまで本を読めなかった)なので、何らかの形で子供たちにも出るかもとは覚悟していたのですが、今のところ下の二人はまだ小さすぎてよく分らないのですが、長男に少し、次女に一番出ているよう。

 

ディスレクシアには3タイプあるようです。

1.障害が能力を打ち消す(Disability negates abilities)タイプ
能力が学校で支援されることなく、隠れたままになっている。

2・障害と能力が対等(Disability equals ability)タイプ
能力が何とか障害を隠している。オールC(五段階で真ん中)の生徒など。

3能力が障害より大きい(Abilities greater than disabilities)タイプ
カリキュラムが難しくなるにつれ欲求不満が増すかもしれない。

学校の教育現場では、主に1と2が表に出る。3はテストが多くなるなどで表に出ることがある。

 

今のところ次女は3のグループに入っているのでしょう。そして3のグループは専門家によってさえなかなか捉えられにくいこともあり、普通の学校生活に支障をきたすほど明らかに症状が出ている子供を主に扱っている公立学校の心理学者では、対処は難しいかもしれないとも感じています。

 

長男は、スペリングや書く(このスペルの問題は家系的なものですねと四年生の時に先生に指摘され。文章間のピリオドやスペースも抜けます)ということのみに出ているようで、○を埋めていくようなテスト結果で振り分けられていく今の学校制度の中でも何とかやっていけているようですが、これから次女がどうなっていくか、彼女がどんな道へ進んでいくのがいいのか、考えてしまいます。

 

読解ができない、スペリングミスというと、子供によくありがちな問題や間違いとも言えますが、その度合いの極端さ(何でもないインストラクションの意味が分らなかったり)、他の面に比べての凹の極端さ、それがいわゆる「障害」と言えるものなのでしょう。

 

重度のディスレクシアを克服し(というよりうまく弱点に対処する習慣を身につけたということでもあるかもしれません)暮らす夫曰く、やはり「人並み以上の努力」しかないと。人が一度でできることを三度五度十度する。そのための時間配分を調整し。

 

薬などもなく治ることはないとも言われますが、ディスレクシアを抱えつつ活躍されている方も多くいるようで、鍵はやはり自分の弱点を知り、弱いと認識していることについてより多くの努力を注ぐ習慣をつけていくということのようです。

 

人の何倍も時間をかけ何回も何回も読む、読み間違いをしていないか何度も確かめる、スペルを必ず何度も見直す、読み終えた瞬間に忘れてしまうのなら読みながら随時メモを取るなど。トム・クルーズやロビン・ウイリアムズも台本を覚えるために読んで音声に落として聞くなど工夫したり、映画監督スピルバーグなども重度のディスレクシアで二年留年したそうですが、いまだに台本を読むのに人の何倍もの時間をかけるのだそうです。

 

歴史上の人物を見ても、個性的独創的な才能を持つ人々も多いディスレクシアですが、読み書きが中心的位置を占め、時間制限のあるテストで振り分けられていく現代の教育環境の中で生き残っていくのは、現実的に難しいことだなと感じています。こうしてディスレクシアの人々にとっては至難の21世紀という見解もありますが、同時に、コンピューター技術が発達し、スペルもコンピュータにまかせられたり、読むより音声で聞き取ることができたり、書かずとも口で表し文章に綴ることができたりと、よりディスレクシア・フレンドリーな社会になるという見方も。

 

対処が早ければ早いほどよいとも言われているディスレキシア。そういった意味では、家では四歳頃から読み書きを教え始めたのですが、それがある意味よかったのかもしれないなとも感じています。早期教育には様々な見解があり、弊害も確かにあると感じていますが、もし家系的にディスレクシアの要素があるのならば、読むことだけでも早くから少しずつ訓練していくのも手かもしれません。習得するのに他の子の何倍も時間がかかるのですから。夫はこのことをかなり身にしみて感じていたようでした。先に挙げた3タイプも、周りの支援によって、1から2へ、2から3へと移していくことが可能なのかもしれません。

 

また多言語教育についても、ディスレクシアの要素を持つ場合はかなり高いハードルであり混乱の原因になるとも言われています。家はどうしても物理的にこれだけしかできなかったという理由で、私が話し続けるという以外には日本語教育をできなかったのですが。

 

もう一つ、一度マスターするとその到達点も高くなる場合があるというのも感じています。読み書きに苦労していた長男ですが、一年生時には九年生レベルの読解力とテスト結果に出ていました(歴史や科学の百科事典が大好きでした)、九九を覚えるのに本当に苦労した次女でしたが(二年生から三年生にかけての夏中三ヶ月かかりました。九九を覚えられないというのもディスレクシアの症状の一つのようです)、夏が明けるとクラスで最も九九をすばやく操れる子と言われるようになっていました。

 

 

次女も、自分にはどうしてもできない部分があるということを分りつつあるようで、それでも今のところ、家庭教師をつけて欲しいと言ってくるなど、落ち込みやる気を失うと言うよりは、自分の弱みを何とかしていきたいと思っているようです。私も自分自身が苦手と感じたこと、分かりたかったんだよなあ、できるようになりたかったんだよなあ、そう思い出したり。夫がそうであったように、弱みを認識し、その部分には人の何倍もの努力をする習慣をつけていくこと、強い部分を生かせる道を見つけていくこと、彼女がこれから社会で1人で歩いていくために、夫と共にその助けになっていけたら、そう思っています。

 

現状の学校制度でうまくいかないということならば、ホームスクールも考えていこう、そんな話もしているところです。

 
 
 
写真 by Totesquatre    Wikimedia Commonsより

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