ピアノの練習、毎晩長女の隣に座り、と続けている。ピアノの先生には、長女が弾く様子のあまりの違いに驚かれ、「やっぱり目を放すのが早すぎたんですよ」と。
以前はたまに練習、触ったとしても一人でささっと済ませる「練習でない練習」だったから、隣から直されたりあと五回!など声をかけられながら「しっかり練習」するのとはやはり随分と違う。
長女とのピアノ二人三脚が始まり、自分のピアノについて思い出している。
長女は三年生の時から始めたピアノを五年生が終わる頃に止め、そして中学に入ってどうしてももう一度習いたいと戻った。私自身、幼稚園の時から続けていたピアノを一旦小学高学年になって止め、中学生になってもう一度弾きたいと戻ったのだった。
それでも、私自身日々の練習がままならず、一年で止めることになる。弾きたいという気持ちはあるものの、思春期日常の様々なあれこれに翻弄され、練習どころではなくなってしまった。そして音域も広くなり、見慣れない音符が増えるにつれ、楽譜を読むのも億劫になっていき。
こちらは日本の私の子供時代のように「バイエル」などなく、初めから曲らしい曲を弾く。どこかで聞いたことのある民謡やクラシックやブルースなどをより簡単にアレンジしたものを習い初めから弾くことができ、なかなか楽しい。三年半ほど続けた長女だけれど、そんな練習過程の違いもあり、結構今のレベル程でも、何オクターブも上や下の音符が出てくる。
何だか私自身、ピアノを止めた地点から再び習い始めているような気持ちになっている。かつて投げ出した「見慣れない音符」を一緒に覚え、新しい曲に取り掛かった時のあの「億劫さ」を繰り返しの練習で超えていき。長女の練習が終わると、しばらく一人で残って弾いてみたりも。
私自身が「ここまで」と止まった壁を、今こうして一緒に乗り越えているかのよう。そして、ああそっか、毎日少しずつ繰り返すなら、乗り超えられるんだ、そう今更ながら実感し。自分にとって、一つの「ブレークスルー」を体験しているかのようです。
子育ての醍醐味の一つには、こうして「自分がつまづいた地点から再び足を踏み出す機会が与えられる」、というのがありますね。
こつこつと向き合うことで、壁を越えていく感覚・喜び、こうしてピアノの練習を通し、長女に体験させてやりたい、そう思っています。
一つまた一つと壁を越え広がる「新しい景色」に、共に感動しつつ。