(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)
子供時代受けた授業の中で、一つ一つの言葉が今でも心に残っているものがある。
同じ内容だとしても、心に残る場合と、右から左へさらりと流れ残らない場合がある、それはなぜだろう?
食い入るように見つめる子供たちの目、この子達の心を射抜き、その心に深く刻まれる言葉とはどういったものなのだろう?
今、こうして子供たちを前にし、そんなことを考えたりする。
以下、“How Do We Inspire Our Children?” By Y.Y.Jacobson, July 27 2009を参考に。
それらの問いへのヒントに、ヘブライ語の”veshenantam levanecha”と”vlemadetem levanecha”がある。共に「教育」を意味する言葉。後者がより一般的に用いられる言葉であるけれど、ユダヤの聖典『トラ』では、教師に対して主要なプリンシプルを教えるための言葉として、前者が用いられている。
前者は、「力持ち(mighty man)が放つ鋭い矢のように」聞き手の心を射抜き、心と魂をもって腐敗することなく保たれ(preserve)、実行される(implement)教えを意味する。
後者は、耳のみに入り、すぐに捨てられるだろうコミュニケーションを意味する。
そして、前者と後者の違いとは、「その言葉が来る場所(the “location” where the words are coming)」に依ると言う。
もしその言葉が教師自身の心に存在するなら、それらの言葉は心から心へと進み、聞き手の心に届く。力持ちが弓を引き、より弓が自分の側にしなえばしなうほど、矢が遠く力強く飛んでいくように。
それでももし外に出されるものが、心の奥深くにせき止められた(stem)ものでないのなら、それは「口と口(mouth to mouth)」だけのコミュニケーションとなり、それらの言葉は聞き手の耳に進み、外側に留まり、実りを生み出すことがない。
アイスクリームが欲しいと叫ぶ子供達、母親が「だめ!」と言い、それでも一時間近く駄々をこね、泣きわめき、最後にほとほと疲れ果てた母親、アイスクリームを子供達の前に差し出す。
次の日同じ親子がスーパーで。「これが食べたい!」と子供が戸棚から食品を取り、母親に差し出す。パッケージを眺め、「これはコッシャー(ユダヤで食べて良いと決められている食べ物)じゃないからだめよ」と言う。すぐにあきらめる子供。
同じ子供が、なぜ?
子供は感じ取ることができるため。
その言葉がその言葉を放った相手のどこから来ているのか。三週間前に「子供達にヘルシーな食事を!」教室で習ったものなのか、何代もかけ受け継がれ話し手の心の底にその存在と関わるほど深く根ざしたものなのか、感じることができるため。
これは本当にその通りだなあと感じます。
どこかで聞きかじり、そのまま耳から耳へと伝えている言葉なのか、
自らの心の底に熟成し、心の奥深くから発する言葉なのか、
子供はすぐに察知できる。
冒頭にあるような、子供時代から今でも心に残っている授業や言葉というのは、やはり話し手の心の底に熟成されたもの。教科書をなぞって与えられたノルマをこなすだけでなく、それらの知識がその先生の内面で練られ熟成され、パッションと共に力強く放たれたものが、子供達の心を射抜く。
記事には、ユダヤがいくつもの試練を越え何千年もの間生き残ってきたのも、この二つの「教育」の違いを区別し、ユダヤのプリンシプルを伝える師一人一人が、教え子に放つ言葉の力を意識してきたためとある。
自分が深くインスパイヤーされていないのならば、相手をインスパイヤーなどできやしない。
自分が深く抱き、反芻し、熟成させ、そんな言葉でないのならば、相手の心に残ることもない。
相手の心の奥深くに残り、実りをもたらす言葉を放っていけたら、
子供達と接する毎日、思い出していきたいです。