・臨界期?
早期教育を促す大きな理由の一つが「臨界期がある」という考え方です。何歳から何歳までの間「のみ」特定の能力を司る特定の脳の部分が発達する、その時期を逃すとその能力を獲得することができない、というものです。例えば言語習得でいうと母語が三歳から五歳までの間(by Eric Lenneberg)、第二外国語は十六歳くらいまで(by DeKeyser)などと言われています。早期教育の現場では当たり前と捉えられている「臨界期」という考え方ですが、それでも臨界期があるというのは、科学的には今のところ仮説の域を出ていないと言われています。
長男が一歳の頃、この「臨界期」という考え方に触れ、子供が小さな時の働きかけが後に大きな違いを生むというのならばと、半信半疑ながら取り組み始めました。文字やパズルを教え、三歳で公文に通わせ、読み書きの家庭教師につき、科学館や博物館に頻繁に通い、百科事典を共に読み、ドーマン博士のドッツ法や文字を教える方法、フラッシュカードも試してみました。
長男に対する盛りだくさんの早期教育も、下の子になるにつれよりシンプルになっていきました。それは一つには、子供の人数が増えるにつれ一人一人にかける時間が限られ、早期教育の内容をより吟味し、本当に必要だと思う内容に絞るようになったためということがあります。そしてもう一つには、私自身が子供に向き合う体験が増えるにつれ、子供の様子や気持ちがより分かるようになり、初めての子の時にはよく見えなかったまた別の大切なことが、見え始めたためでもあります。
二人目からは文字や数や色など抽象的な概念は、ゆっくりと教えていくようにしました。五感での体験を中心に据え、三歳頃までは言葉での説明もなるべく少なくし、文字や数などの読み書きも三歳過ぎまでは教えないようにしました。文字や数を用いて物事を抽象的に捉え始める前と後とでは、子供達の世界の捉え方が大きく変化します。抽象概念の習得は、子供にとってとても大きな出来事なのです。
・抽象概念を早くから教えるのはもったいない
例えば、ドーマン博士の「読み」の教え方は、家の各所に大きく文字を書いた紙を置いておき(「台所」「鳥籠」など)、赤ちゃんがその地点に来るたびにその紙を見せ続ける、すると赤ちゃんはその紙を見ただけで、「読む」ことができるようになるというものです。
それでも子供達と過ごす時間が増えるにつれ、こうして子供に文字を教えていくことに違和感を感じるようになりました。感性の敏感な時期に、見たもの感じたものを一言に集約させてしまうことが、もったいないと感じるようになったのです。台所は「台所」というような一言でおさまるようなものではありません。流し台に積み重なった皿、カウンターに置かれたガラス瓶に反射する光、冷蔵庫を開けたときの冷たさ、鍋から立ち上がる湯気の温もり、レモンをざっくり切った瞬間に立ち上がる匂い。「鳥籠」には黄色と青色のセキセイインコの鳴き声が満ちていて、抜け落ちたカラフルな羽が隙間に張り付き、止り木を突く振動がリズミカルに響いています。
いずれ「台所」、「鳥籠」と一言で括ってしまえる時が来ます。赤ちゃん時代まで前倒しして文字を教えることは、固い大人の頭では想像もつかないほど豊かな子供達の世界を、狭い枠に押し込める作業なのではないかと思い始めました。そして赤ちゃん期から読みや数字を教え込む早期教育というのは、少し大きくなれば一時間もあれば学んでしまえることを長い期間かけて訓練することで、ひょっとして赤ちゃん期にしかできないかけがえのない体験の機会を、無駄にしているという面もあるのではないか、そう思うようになったのです。
長女が五歳の時、色をうまく識別できないことがありました。ピンク色の人形のドレスが、ピンクでもあればピンクでもないと言うのです。葉は何色? 水は何色? お絵かき中のそんな質問にも、とまどって答えられません。「赤色のペンを取って」と頼んでも首を傾げたまま動きません。電子機器の点灯する光も、左目で見るのと右目で見るのとでは違う色だと言います。色についてのコミュニケーションが、なかなかとれませんでした。念のため色覚異常の検査を目医者にしてもらいましたが、結果は異常なしです。
長女によく聞いてみると、ドレスは角度によって色を変え、晴れの日と曇りの日では木々の葉は違う色だと、朝と夕方では湖の色は同じ青色ではない、赤色のペンは濃い赤もあれば薄い赤もあり、点灯する黄色は陰のさし方によって異なると言うのです。「緑」や「青」と一言では括られない多様さ、五歳の彼女が見ていたのはそんな風景でした。この長女の出来事は、抽象化を習得する前の、境界の無い豊かで鮮やかな子供達の世界を示してくれました。
いずれ繊細な色の変化や違いも一緒くたに「緑」「青」と言ってしまえる時が来ます。実際長女も小学校に上がる頃には、自然と色について迷うことがなくなりました。多様に溢れるものを一つの箱に押し込み、札をつけて終わり、そんな練習を早くからさせるよりも、溢れる多様さの中に、もっとゆったりと思う存分遊ばせてあげたい、そんな思いが徐々に強くなっていったのです。
抽象化の練習を早くからすることは、空っぽの箱を前にまずはいくつかの札を渡され、その札に合わせて箱に物事を詰めていくようなものです。札に合わないものは手に取ることなく札に合ったものだけに注意を向けるようになります。逆に五感を通しての体験を積み重ねたところに抽象化が導入されるのならば、それは既に多様に溢れている物事に少しずつ境界を引いていく作業になります。リアルな体験を通しての物事を整理することで、札一つ一つの中身は深く幅広くより安定したものとなります。
「赤」という紙に描かれた一つの色から学ぶのと、血の赤、夕焼けの赤、りんごの赤、バラの赤、隣の女の子の靴の赤、お姉さんの口紅の赤、秋の木々の赤、焚き火に燃える赤、雪の中に見つける冬帽子の赤、それら様々な「赤」を五感を通して知った上で「赤」という色を学ぶのとでは、その「赤」の中身の豊かさは全く違うでしょう。
・机での取り組みより実践体験をメインに
かといって、幼い子に知的面への働きかけを全くするべきではないとは、思いません。大切なのは、どれほどの年齢からどれほどの力や時間をかけるのか、そしてそのやり方です。子供達を見ていて、家の子達の場合は、三歳くらいから抽象的な概念を操る練習をしていくことは、子供の成長にいい影響を与えたのではないかと感じます。子供達は抽象化を少しずつ覚えることで、それまで積み重ねられた体験を整理する喜びに溢れているようにも見えます。ただその子の様子を見つつ、少しずつ、働きかけ方に気をつけながらです。
保育者の仕事とは、抽象化と実践体験を行き来しつつ繋いでいくことだという保育士さんの対談を読んだことがあります。例えば滑り台などでの順番待ちという実際の行為と、赤白青とパターンになった折り紙の飾り作り、それらの行為を繋げてABCABCというような抽象的なパターンを習得させていきます。抽象的なパターンのみをドリルなどで何度も繰り返し教え込むのではなく、抽象的な概念と生活に根ざした実際の体験とを行き来しそれらを繋ぐことで、子供達は成長していくというのです。
私はこれが、早期知的教育の鍵だと思っています。つまり、小さければ小さいほど、体験を切り落とした机上で抽象的概念を操る練習をするよりも、五感を使った実際の体験をたくさんさせ、それらの体験と机上での学びを繋げるような働きかけをすることが、子供にとってより無理のない成長を育むのです。
・三歳頃からの取り組み具体例
三歳にもなった子供の知的欲求というのは、ものすごいものです。「あれはなに?」「どうして?」そんな質問を一日中するものです。それらの質問一つ一つについて、具体的な物事を用い五感での体験をさせつつ、説明していきます。道を行くミキサー車を見て「あの車はなに? なんでぐるぐるまわっているの?」と聞く子には、実際にセメントが用いられている工事現場や、ミキサー車が出入りする工場へ出かけるのもいいですし、粘土などを用い、溶かし回して固めるといった体験をさせるのもいいでしょう。そういった五感を通した体験と共に、ミキサー車の出てくる物語や、ミキサー車の仕組みなどが説明された百科事典を読むのもいいです。学齢期までは、机上で書いたり問題を解いたりの取り組みは、ほんの少しで十分です。五感を通した学びを大切にしつつ、ゲームや遊び中心の方法で、十の体験の上に一の机上の取り組みをのせていく、それくらいのバランスが丁度いいと感じています。
文字を教える際は、実際に身体を使ってその文字の形を表してみるのもいいでしょう。砂の上に描いてみたり、小枝で文字を作ってみるのもいでしょう。その文字で始まるものをリズムに合わせて唱えたり、カルタやこの部屋で「あ」のつくもの探してみよう、というようなゲームもいいでしょう。数を教えるには、周りに溢れる「多い少ない」ということから教えていきます。「見て見て、この電線、こんなにいっぱい鳥がとまってる。あちらの電線はちょっとだけだね」。「うわあ、○○君大きくなったね。妹の○○ちゃんは小さくて可愛い、○○君は五歳で、○○ちゃんは二歳なんだね」といったように、身の回りの物事を「多い少ない」という概念に結び付けられるような言葉がけをしていきます。階段を登りながら数を数えてみたり、かくれんぼをして鬼の数える声を聞かせるのもいいでしょう、玄関先に咲く花びらを数えたり、落ちている石を数えながら拾ってみるのもいいです。身近な生活の中に、学習の条件材料が溢れています。プリントされた紙を前に座って学習するよりも、なるべく身体を使い五感に働きかけ、遊びやゲームをふんだんに取り入れます。
・できた・できないに拘らない
幼児と向き合う中で、常に心に留めておきたいことは、できたできないというような結果によって、その子をジャッジしないことです。これくらいの年にできたできないということが、その子の将来を決めてしまうということはありません。あの天才とされるアインシュタインも、七歳までまともに読み書きができず、周りから知能が低いと思われていたといいます。その子なりのペースとやり方で発達していくのです。
発達の過程で、周りと比べ、この子には才能がないからと、周りの大人が諦めてしまわないことです。成長というのは、単純な一直線上に伸びていくわけではありません。目先の結果に拘ることなく、学ぶことを一緒に楽しむといった姿勢で気長に向き合っていくことです。親が楽しんでいる姿を見るのが子供は大好きなもの。親が楽しんでいる様子を見て、自分も学ぶことを楽しむようになります。そして共に学ぶことを楽しんだ体験は、大きくなってからも大切な思い出として子供の心に残ります。長い目で見れば、試験の結果がよかったというようなことよりも、共に学んだ楽しい思い出の方が、その子が将来羽ばたくための土台となります。
・三歳頃までは?
三歳頃から始める知的面への働きかけについて取り上げましたが、それでは三歳頃までは何をすればいいのでしょうか? 例えばこんな研究があります。最新の設備が整った裕福な託児所と、貧しく設備に恵まれていない託児所での乳児の発達を調べたところ、貧しい託児所の方が、子供達の発達がめざましいという結果が出ました。なぜかと調べてみると、裕福な託児所では、設備が行き届いているため、保母はほとんど何もする必要がなく、乳児たちは一日中快適な環境に寝かされたままでした。一方、貧しい託児所では設備が整っていない分、保母が頻繁に抱っこしたり外に散歩に連れ出したりと、忙しく一日中動き回っていたことが分かったのです。適度な刺激が成長を促すことを示唆する実験結果は、この他にも多くあります。三歳まではこうした「適度な刺激」を与える、ということに気を配るといいでしょう。
「適度な刺激」とは、人ごみに毎日のように連れ出したり、大音響の3Dの映像を見せたりというようなことではありません。朝日の眩しさを感じさせ、夜は暗闇の中で涼しい空気に触れさせ、めりはりのある規則正しい生活リズムの中で、抱っこなどのスキンシップを心がけ、お話ししたり歌ったり共に遊んだりとコミュニケーションを多くとり、様々な色や形や材質のものを触らせることです。
普段の生活の中に、最適な刺激が溢れています。そして人の温もりや表情や肉声などの他に、五感が最もバランスよく刺激されるのが、自然に触れる時でしょう。無機質な人工物の一辺倒な変化ではなく、生きた人と同じように、自然は微妙に変化し続けています。昨日と今日、朝と夕方とでは肌に当たる空気の冷たさも、匂いも、明るさも、空の色も違います。季節の移り変わりの中で、緑から黄色へ白へと風景も移り変わります。変化のサイクルを通して自然の中で過ごす時間を取るよう心がけます。といって今日、都市部ではなかなか自然に触れる体験をさせるのが、難しいかもしれません。それでも砂や水で遊んだり、季節によって色を変える街路樹や公園の木々の間を歩いたり、空を見上げて雲の形や星を眺めたり、雨上がりの匂いや風が草木を揺らす音を感じてみたり、近所を散歩するだけでも随分と自然に触れることができるはずです。無機質の壁や物に囲まれ、温度の一定に保たれた屋内に一日中過ごすのでなく、屋外に連れ出す時間を持つよう心がけたいです。
・無理のない早期教育を
三歳までは生きた人や動物や自然に触れる体験をたくさんさせるよう心がけ、普段の生活の中に溢れる刺激に十分触れさすこと。そして三歳頃から徐々に知的面への働きかけを始める。机上での文字や数などの抽象的概念を操る練習よりも、生活に根ざした五感への働きかけ中心に、遊びやゲームを用い、学ぶ楽しさたくさん体験させるようにする。これらが早期教育について我が家のたどり着いた、最も良いと思われるやり方です。
臨界期があるかどうか、本当のところは分かっていません。「臨界期がある」と過度に煽られることなく、知的面から情緒面、長い目で見た全体的バランスを大切にしていきたいです。私自身今では、やる気さえあれば、いくつになっても能力を伸ばしていくことができるのだと思っています。第二外国語習得についても「外国語が日常的に使われる環境に身を置き、高いモチベーションを持って聞き取りや発音などの音声的な訓練を長期間行なえば、10%以上の人がネイティブ並みといえる文法・発音能力を習得できる」(by David Birdsong)という研究結果もあります。この「やる気」「高いモーティベーション」を潰さない教育、伸ばしていく教育についてもっと語られてもいいのだと思っています。一直線上に並べられ、ジャッジされ続けていては、子供達の「やる気」もそぎ落とされていくでしょう。小さな頃から学ぶ楽しさを体験させること、それがその後の「やる気」を支える力ともなります。
最後に、子供というのは、そうそう弱いものでもないということを覚えておきたいです。できないからと叱り飛ばしてしまったからといって、その子が完全に壊れてしまったなどということはありません。試行錯誤の中、無理な早期教育を一時施したからといって、その子をだめにしてしまうということもありません。間違ったと思ったのなら、その後どう改めていくかです。子供というのは、一度壊れたら修復不可能なガラス細工のようなものではなく、天目指して高く高く伸び続ける樹木のようなものです。光、水、土のバランスを取り戻すことで、再びすくすくと伸びていきます。長男も、創造力溢れる元気な中学生に育っています。