マインドフルネス

内奥の安心感に至り持てる力を発揮するために

003マインドフルネスについて、今の時点で感じていることを整理してみます。
 
これまで感じ思ってきたことが、この「マインドフルネス」というメソッドを通し繋がってきた、曖昧で言葉にしにくかったことを、より明確に伝える手段を得た、そんな気持ちでいます。
 
 
 

一旦壊れて回復した自身の体験

私自身、子供時代から「不安感」というものが強く、十年ほど前に日常生活を送ることさえ難しくなるというピーク状態になりました。
 
ピーク状態から回復したのは、発狂してしまうかも(結局はその思い込みからくる恐れに翻弄されていたということだったのかもしれません)といった境目を行き来することで、次第に「ここに戻ればいい」という感覚を掴み始めたためです。どれほど圧倒的な不安感であったとしても、内奥のその場に戻ることで、呼吸が変わり、穏やかな温もりに包まれていきました。
 
発作はほとんど真夜中に起こり、多くの場合日が昇ると共におさまっていったのですが、「そこに戻る」ことで、例え真夜中であったとしても、まるでその圧倒的な暗さ重さの中に、じわじわと光と温もりが広がっていくといった様子でした。
 
こうした感覚に救われつつ、同時に日常生活で進めてきたのが、以前のブログにも少し書いたのですが「内観」でした。それは自身の内面に生まれる「不安の芽」のようなものを見つめていくこと。「芽」の時点で気づいていることで、不安感に呑み込まれることも少なくなっていったのです。
 
 
 私自身の救われたこの「ここに戻る」という感覚を、どう子供達に伝えられるか?
 不安感や恐れなどに呑み込まれることなく、持てる力を発揮していくには?
 
自身が一旦壊れ回復した体験から、そう問い続け、ここ十年ほど自分なりの試行錯誤を重ねてきました。
 
 
 

 マインドフルネスとの出会い

今年になり、「マインドフルネス」というものをより詳しく知ることになったのですが、これらの「問い」に、よりシステマティックに実用的に答えられるツールの一つだと感じています。
 
「マインドフルネス」自体は、二千五百年の歴史を持つ仏教のメソッドにルーツを持ちますが、どんな思想や宗教的信仰を持っていたとしても対応できるよう抽出され、また観念的なものではなく、とても現実的実用的です。
 
ヨガが広がり始めた当初は、エキゾチックで怪しげにも見えたものでしたが、今ではどの地方のカルチャーセンターをのぞいても、ヨガクラスがあったりします。「マインドフルネス」も、いずれ「よりヘルシーなライフを」といったポップな文句と共に、街のどこでも気軽に試してみられるようになるのではないか、と想像しています。ホットヨガ、パワーヨガなどのように、様々なマインドフルネスバージョンも出てきたり。
 
米国では、今年初めにタイム誌が「マインドフル革命」という特集を組んだり、米有力ニュースサイト「ハフィントン・ポスト」の創業者が「マインドフルネスはメインストリームになりつつある」とするなど、随分とメジャーになりつつありますが。
 
 
 

具体的メソッド

では、マインドフルネスの具体的メソッドとは?
 
・自身のマインド(思考と感情)の動きに気づいていること

・それら思考と感情をジャッジせず、思いやりと親しみを持って接すること

・思考と感情を自己と同一化しないこと。自己は思考と感情ではない。

・思考や感情に伴う身体の状態を観る。多くの場合、身体のどこかに力が入っていたり緊張していたりします。眉間や舌など緩めてみるとふっと力が抜けることも。私自身は、右の額から頭部にかけて異常に力が入っているのに気がつきます。

・呼吸や五感を通し、プリゼント(今この瞬間)にフォーカスをシフトする。
この状態が「マインドフルである状態」です。
 
「活発に動くマインド(思考感情)にはまり込んだ状態」(頭部だけ活発状態)から、身体に意識を下ろしてくる、そんなイメージです。
 
 
 

 瞑想の位置づけ

このマインドフルであるための一連の動きをより軽やかにするための「筋肉」を鍛えるのが、マインドフルネス瞑想です。
 
綱渡り師が軽やかに綱の上を舞うために、日頃の筋力トレーニングが欠かせないように、マインドフルであるためにも、日頃からトレーニングを積み重ねていくのが有効です。
 
マインドフルネス瞑想には、フォーマルとインフォーマルとがあります。フォーマルとは、座禅を組むなどしてマインドフルであることのみに集中するもの、インフォーマルとは、日常の生活の中で、マインドフルであることを心がけていくものです。
 
座っての瞑想の目的とは、集中して鍛えることで、マインドフル状態を日常生活により生かしていくためです。筋力トレーニングで言えば、普段の生活で動きに注意して筋肉を鍛えると同時に、ジムなどで集中して鍛える時も持つというようなことです。
 
以前こちらでも、「細切れに一分二分と瞑想時間を日常生活に挟んでいく方が、長い時間座ってよりも効果的という説もある」と書いたのですが、座っての瞑想の目的や何をしたらいいかが分かるにつれ、その認識は変わりつつあります。私自身実践して感じるのは、少しじっくりと座って瞑想する時間を持つ方が、日常生活でどう生かしたらいいかの感覚なども整理しやすく、コツも掴み易くなります。日常生活の動きに注意するだけの筋力トレーニングに加え、プッシュアップやジョギングしたりとまとまったトレーニングの時を持つ方が、より身体の感覚を掴み易いように。
 
伝統的な仏教では、初心者には一時間座禅が目安のようですが、今私自身取っているMBSR(マインドフルネスストレス低減プログラム)では、一日四十五分間を試してみるようにとされています。八週間のプログラムの後は、個々に合った時間をとのこと。
 
 
 

インストラクターの位置づけ

MBSR開発者の生物学者ジョン・カバットジン氏は、マサチューセッツ大学の医療センターで「ジョン カバットジン博士」と縫い付けられた白衣を渡されたにも関わらず、一度も着ることがないのは、その白衣のもたらす「権威的な雰囲気」が、マインドフルネスにはふさわしくないからとその著書に綴っています。
 
医者や科学者が患者より患者のことをよく知っている、患者はそうした「先生」に従う、そういった関係ではなく、マインドフルネストとはあくまでも、「患者」本人が自身をより知り、自身でマインドや身体を整え、自身の力を引き出し、自身の健康状態により責任を持つためにあると。
 
マインドフルネスのインストラクターとは、マインドフルネスに向き合う人々が「自身をより知るため」の助けをするのであって、それ以上、それ以下の何者でもないといいます。
 
これは今のプログラムを見ていても感じています。講師は、参加する一人一人が自身の感覚や思考を観察し、より己を知る方向へと導くものの、何ら「答え」を与えてくれる存在ではありません。「ご自分で試してみて下さい」という言葉を何度聞いたか分かりません。
 
 
 

刺激に反応する前にスペース

こうしてマインドフルネスである状態を心がけて気がつくのは、刺激に「反応する」前に、より「一スペース」を置くことがよりできるようになるということです。
 
怒りやイライラや悲しみや焦りなどの感情の波に突き動かされ、即座に反応するのではなく、それらの感情を認めつつ、どう行動するかを「選択するスペース」がよりはさめるようになってくるのです。反応(reaction)から応答(response)へ。
 
これが「ストレス低減」の鍵でもあり、子育て生活にもとても生かせるのですが、このことについては、次回また改めてまとめたいです。
 
 
 

内奥の安心感に至り持てる力を発揮するために

1.「ここに戻る」という感覚を、どう子供達に伝えられるか?
2.不安感や恐れなどに呑み込まれることなく、持てる力を発揮していくには?
 
私自身問い続けてきたこれらの問いに、どうマインドフルネスが応えていけるのか?
 
 
まず2については、マインドフルネスの「具体的メソッド」によるトレーニングを続けることが、確かに有効だと感じています。マインドのやりたい放題」から手綱を取り戻す。
 
 
1について(模索中の感覚的な話ですが):
マインドフルネスで言う「戻る場」とは、呼吸や五感を通し戻る「プリゼントの状態」のことです。それが、マインド(思考感情)にがんじがらめ状態から、抜けた状態。それはとても中立的で、張りすぎず緩みすぎず、「無」に近い状態であるように感じています。
 
一方、私自身の救われた「圧倒的な温もり」とは、「緩める」方向へと大きく傾いた感覚のようにも感じています。
 
マインドフルネスで強調される、「慈悲、親切心、思いやり」を広げるという言葉を思うとき、マインドフルネスが最終的に目指すのは、中立である状態から、この「圧倒的な温もり」に近いものを生かしていくということなのかもしれません。この過程は、アインシュタインの言葉を持って、説明されることもあります。
 
「A human being is a part of the whole, called by us Universe, a part limited in time and space. He experiences himself, his thoughts and feelings as something separated from the rest-a kind of optical delusion of his consciousness. This delusion is a kind of prison, restricting us to our personal desires and to affection for a few persons nearest to us. Our task must be to free from this prison by widening our circle of compassion to embrace all living creatures and the whole nature in its beauty.」
要約すると、
「人は、思考や感情を通し、全体から隔てられていると錯覚している。この錯覚が、個々の望みや近親者のみへの愛情へと私達を制限していて、それはまるで牢獄にいるようなもの。私達の仕事とは、この牢獄を抜け、全ての生けるものや、自然全体をその 美しさの下に抱きしめ、慈しみ深い熱情の輪を広げること」
 
マインド(思考感情)を抜けた場、それは個々から全体へと至る場であり、「慈しみ深さや熱情の輪」といった「圧倒的な温もり」に繋がる場であると。
 
マインドフルネスは、確かにマインドを抜けた中立の状態に至る土台を自ら意識的に築き、その道筋をより太く強くしていくことを可能にする、そしてその先にある「圧倒的な温もり」をも日常生活に生かすメソッドの一つを提供してくれるのかもしれない、そう感じています。
 
 
 
書き始めると、言葉ばかりが先へ行ってしまいます。実践、分析、内省、試行を続けていきます!
必要とする方々に、より伝えられる形へと整えられるよう。
 
 
読んでいただき、ありがとうございます。
皆様、どうぞ素晴らしい週末を!
 
 
 

 

 

2 Comments

  • 長岡真意子
    October 14, 2014 - 2:00 am | Permalink

    佐々木さん、コメントありがとうございます! 笑い流すどころか、現実的にとてもためになります。
     
    「転んでもただで起きない」、そう思うことで、動転したときに、意識に「一スペース」置き「一つの方向へ向けて抜けていく道を用意」できる。「一スペース置く」には、落とし物を探してる振り、地面をノック!(笑)なども有効と。
     
    私なりにとてもよく分かります。というのも、もう私自身、ドジはホントよくしてきた方で。
     
    人前で転んで恥ずかしさに気が動転して慌てて起き上がる時に、鞄をひっくり返しに掴みザーと中身が派手に全て落ち、転がるコインなど追いかけて四つんばいでテーブルの下へ行き、起き上がるときに頭を強く打って・・・とか、バッフェでお皿一杯の料理を持っていて派手に転びそこら中にぶちまけるとか、友人のお子さんの誕生会でケーキを子供達に配る手伝いをしていてケーブルにけつまずき放り投げてぐしゃり・・・とか。もうちょっとどうにも救いようがない状況というか、体験してきました。(笑) 子供達に「こぼさないようにね、気をつけて」と言いながら、だいたい自分が率先してこぼすんですよねえ。(笑)
     
    ドジを繰り返してきた分、動揺して「より悪くする」ことだけはしないでおこうと少しずつ実践するようになりました。どんな状況でも平然とした顔で立ち上がり、さっさと処理を始めたりするのがいいですね。そのために、「一スペース」置く、なるほどです。すぐに涼しい顔に戻ること、こちらでは人前で感情をあまり出さないようにすることに慣れている方も多く、学びました。すると周りも「今のあの惨劇」は実はあったのかなかったのか、と何事もなく進んでいったり。
     
    人前で話す時、頷いてくれたりする好さそうな人を見つけて、その人に語りかけるつもりで話す。なるほどです。私自身、平気にべらべら話せる時と、何言ってるんだか分からなくなる時とあるんですが、確かに、ぐるぐる回り始めるマインドを、「誰かの意識とひっかける」ようなイメージでいくと、集中して話し始めることができるように思います。「この人にこの内容を分かってもらおう」と「ぐるぐるから抜ける道」がはっきりすることで、スラスラと話せるように。
     
    「この種の例はいくつも思いつく」、ヤクザさんと車ぶつけても無事抜けた法、作文三行から続ける法、「一スペース」はさんでのあれこれ工夫、興味あります。 いつか是非お聞きかせください! 
    &nbsp
    狼狽動揺し、マインドがぐるぐるワンダーするのを、「エポケー」という「思考からフォーカスを移す状態」をはさむことで、本来正常であるはずの「志向的意識」に戻していく。「エポケー」によって、「水が低きに流れるように、自然に意識が流れ出して」いくんですね。「筋肉を鍛える」とは、この流れをよりスムーズに身体化すること。とてもストンと整理できました!
     
    長い間の様々な体験と思索に基づいた佐々木さんの言葉の数々、いつも多くを気づかされています。ありとうございます。

    こちらも新しい週始まりました。これから二週間ほど、ちょっとチャレンジングなイベントが続くのですが、「エポケー」をはさむこと、心がけていきますね。佐々木さんも、どうぞ良い日々をお送りください!

  • October 12, 2014 - 5:27 pm | Permalink

     「一スペース」を置くということへのコメントです。といっても、自分勝手にやってるちょいとした意識操作でなので、笑い流してください。

     「転んでもただで起きない主義」というのが、その一つ。人通りの多い場所などで滑って転んだりした時、恥ずかしいから慌てて起き上がろうとしますよね。で、その慌てた様子を見られてたりすると余計に恥ずかしい(笑) そこで転んだままの低い目線で、地面にお金でも落ちてないかとゆっくりと見回して、やっぱり落ちてなかったかとういう顔をして、平然と起き上がる。この「ひと息いれる」間で、平常の自分に戻れるんですね。

     これは、転んだ時だけではなく、いろんな狼狽する状況が生じた時に、応用できます。お金を探すのがみっともないと思うのならば、ドアのつもりで地面をノックしてモシモシと小声でつぶやいてみるとかね(笑) まあ動転したときなど、なんでも良いから意識に「一スペース」置いてやって、一つの方向へ向けて抜けていく道を用意してやることです。

     元来の小心者ですから、たくさんの人前で話すことが苦手でした。大学ゼミなどで勝手な意見などはいくらでも話し続けられるのに、あまり接点のない人たちの前で話す時、緊張して焦点が定まらず何を言っているのか分からない状態になりやすい。そこで工夫したのが、たくさんの見知らぬ顔のなかで、何でもうんうんと頷いてくれるような人をみつけて、その人に向けて話すという方法です。そういうひとの好い人って、必ず一人ぐらい居てくれるんですね(笑) そんなわけでマイクを持って最初に行う作業は、ゆっくり聴衆を見回して、探りの一言ぐらいをぼそっとつぶやいて、そこでちゃんと反応してくれそうな人を見つけることです。それがはまれば、あとは一時間ぐらいでも話し続けられますね。

     この種の例はいくつも思いつくんですが、はぶきます。飛びますが、現象学の基本概念に「志向的意識」なんてのがありましたね。つまり正常に機能しているときは、「何ものかへの意識」なのに、緊張したり動転したりしてるときって、それが対象へ向わずにぐるぐる回りしてるんですね。マインドがワンダーなのも、そういう状況なのではないでしょうか。筋肉でいえば、痙攣を起こしているような状態です。そこで「一スペース」置くこと、すなわちエポケーですw すると、水が低きに流れるように、自然に意識が流れ出して行きます。

     そのために、深呼吸したり呼吸を整えたり、いろいろあるでしょう。「筋肉を鍛える」とは、日ごろからそのように自然に意識が流れ出すためのパターンを身に着けてしまうということじゃないでしょか。そして、その切り替えに要するのが「一スペース」「一呼吸」の空白じゃないかと思います。

     ほかにも、ヤクザ屋さんと車ぶっつけて、大変な状況をどう切り抜けたか、とか。小学校の時、いつも作文が3行で終わってしまうのをいかに克服したか、とか、いくつかネタがあるんですが、またの機会に(笑)

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