社会・国・世界

「女性の天才はどこへ?」という記事から思うこと

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「女性の天才」の名前をできるだけ挙げてみてください。

ほら、すぐに思いつかなくなるでしょう?

 
そう始まるScientific  Americanの記事’Where are all the female geniuses?‘(女性の天才は皆どこへ?) Special Collectors Edition Volume23について紹介しつつ、思うことなどまとめてみます。
 
 
 
一昔前までは、女性は能力的に男性より劣っていて、メンタル面も体力面も男性よりひ弱なのだから、より高度な教育を受けたり、表舞台に出たりというのは、女性には適していない。そんな考えがマジョリティーでした。女性は、行儀よく慎ましやかに配偶者の「補足」として、旦那様や子供達をなだめ世話をするのが一番と。
 
何時間もオフィスやスタジオで何かに没頭するなんてことは許されず。もしそうしたい女性がいたならば、男性と偽る必要があったと言います。例えばこの記事にあるように、19世紀のブロンテ姉妹のように、男性名で小説を発表したり。フェミニストの芸術歴史家リンダ・ノックリン氏によると、20世紀に入るまで、女性アーティストは、男性ならば当たり前とされるヌード画を描いたり、芸術アカデミーやパトロンのネットワークに入ることさえ、否定されていたそうです。
 
それでも、現代多くの国で、女性が様々な分野でますます活躍するようになっています。米国では、大学を卒業しメディカルスクールに入るのも、男性より女性の方が多く、2012年には、女性の方が男性より多くオリンピックチームに入りました。スタンフォードビネーという知能テストを開発したルイス・ターマン氏は、1500人近くの高IQの子供達を何十年にも渡り追跡調査したのですが、その中で最もIQの高い3人が女性だったと言います。また2008年には、78の研究に基づき、創造性においても、男女の差はほとんどないと明らかになったと報告されています。
 
能力的には、男女の差はないと、明確に分かっているんですね。
 
 
 
それでも、そうした能力があり創造的な男性と女性の「成果」には、大きな開きがあると言います。社会の表に数字として表れるものですね。例えば、伝統的なメディア市場で社説を書く女性の数は5分の1、トップレベルの雑誌や文芸ジャーナルの記事を書く女性は全体の3分の1といったもの。
 
女性には能力も十分にあり、様々な門戸も開かれた現代、それでも、それぞれの分野で認められる成果をあげトップに上り詰めることに、どうして女性は今でもこれほど困難を抱えているのか?
 
それは、キャリアの初期の段階で、女性は、突出するための競争から身を引いてしまうため、と説明されています。
 
心理学者のジャックリーン・エックリン氏は、「どのように人生を生きるかについて、男性と女性の間には、巨大な構造的違いがあるんです」と言います。
 
 
 
2011年、コーネル大学の研究チームが、科学と工学分野での性差別について調べた結果、これらの分野で女性が少ないのは、グラントの獲得や、提供される仕事や、屈指のジャーナルへの掲載状況での男女間の不公平さにあるわけではないとしています。そしてこの格差は、「女性が家族やワークライフバランスをより重んじる」ことに関係しているため、と結論付けています。女性は、子育てや老いた親の介護などと折り合いをつけるために、リサーチにより時間がかからないといった、「より望まれない地位」を受け入れる傾向にあるんですと。
 
2009年にカリフォルニア大学で行われた、8000人の博士課程の学生を対象にした調査では、半分の女学生が、学問でのキャリアは、家族フレンドリーではないかもしれないと懸念していたと言います。時間がかかり過ぎる、子供や配偶者と相容れない、地理的に問題があるなど、同じような懸念を抱いた男性は、3分の1。その中の母親は、実際週に「100時間」学問と育児と家事に注ぎ、父親は、「90時間」と報告しています。学問で成功したいと思う女性にとって、学位をとり、仕事を得、テヌアー(終身在職権。平均39歳で獲得)を取る時期と言うのは、子供を産み育てるのに最適な時期と完璧に合致してしまいます。
 
 
 
「全ての研究を合わせると、結婚と出産が、その女性が高みに到達するかどうかを予想するための、最も有効な変数だと言うことがわかります」とカンザス大学の研究チーム。
 
周りから突出するのは、その道に一心不乱に没頭する必要がある。「家族のため」を選ぶのは、個人的でしばしば立派なこと。それでも「天才レベルの成果達成」には、繋がらない。そして女性は、そういった「天才」に繋がるような人生のあり方を、あまり望んではいないと。
 
2004年に米国政府は、チャイルドケアの補助などのオプションが、学術分野の女性に与えられることで、女性を「偉業へ向かわせる道からなぎ倒すような地震」を和らげることができるだろうと発表したそうです。ジェンダーによる家事責任の不平等が、ようやく是正されるならば、女性も男性と対等になれるだろうと。
 
 
この記事の最後はこんな言葉で結ばれています。
 
創造的な潜在力が土から顔を出し、成功するかどうかは、人生が芝刈り機を送り込むか、守るためのカバーを提供してくれるかによっている。天才は様々な条件が偶然に合わさった運の産物。社会がこれ以上、女性に対して天才であることを遮る重荷を与えるべきではない。
 
 
 
 
天才とは、
 
1.遺伝子の配置により生み出される能力
2.一心不乱に没頭できる環境
 
という「偶然」が合わさったとき、生みだされると
 
そして女性は、例え1に恵まれたとしても、結婚や子育てを通し、2を得る機会がめったにない。そのため、歴史に名を残すような「成果」をあげることができないということですね。
 
なるほど、と思います。
 
 
と同時に、そういった歴史の表に出てきた天才の陰に、そうした天才を支えるどれほど膨大な人々の群れがあるかということを思います。ある意味、「天才を生み出す天才」がどれほどいたかと。誰一人として欠けていたら、その天才を生み出すことにならなかったでしょう。といって陰で支えた人々は、自分の名前が世に出るかどうかなんて、お構いなしだったとは思いますが。
 
もし冒頭の「女性の天才の名前をあげてみて?」と聞かれるのならば、私だったら名前が途切れることがありません。
 
相手の気持ちが分かる天才、相手のためを思って動く天才、心地よい環境を整える天才、周りを笑顔にする天才、落ち込む相手を慰め癒す天才、家を華やかに飾りつける天才、落ち込む子を温もりで包む天才、残り物で料理する天才・・・。
 
周りにそんな「天才的な女性」がたくさんいます。
 
そしてそうした「天才性」は、社会では「成果」として表立って認められることがない。
 
 
そして子育てというのは、まさしくこうした社会的な「成果」という観点から認められたり切り捨てられるものじゃない、そう思います。親もこうした「成果」追求の眼鏡をかけ子供に接する時に、子供にとっても親にとってもきつい子育てのあり方というのが生まれてしまうんです。子育てに大切なのは、「無駄に見える遊びのための時間や環境」を整えること。子育てには、「成果を積み重ねる」といった社会的な要求とは、相対する姿勢が大切なんです。
 
 
 
もう一つ、といって、「陰で支える女性の天才がどれほどいたか」という考え方が、「女性は陰で支えるもの」という文化的な強制や、いまだに残っている職場や社会での機会の不平等や、家を切り盛りする負担の不平等さを、「温存」することにならないよう注意する必要もありますね。
 
理想は、多様な選択肢を前に、一人一人が自ら「選択」できること、「これしかない」と強制される状況が減っていくことだと、私は思っています。
 
一人一人が自ら選び、他の誰でもない私自身が決めたのだからと歩いていける社会。そのために、男性女性についての古びた固定観念やしきたりは、取り去っていきたいですね。能力的には全く差はないと明確なわけですから。女性も男性も、自らの選択により、家庭も含め、様々な分野で持てる力を生き生きと発揮できるようになれたら、そう思います。
 
そんなビジョンに向けて、私自身できることをできる範囲でしていきたいです。
 
 
 
皆様、今日もよい日をお送り下さい!
 
 
 

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