大学進学&その後

米国トップ大学入学審査はアジア人に不利?アイビーリーグ大学助教授の義弟に聞く

米国トップ大学の入学審査は、完璧な学業成績&目のくらむような課外活動歴を持っていても、パスできない場合があるという話を聞きます。また昨今では、特にアジア人にとって「不公平」な審査内容になっているのではないかという声も。
 
義弟は、アイビーリーグの一つの大学で助教授をしているんですが、大学入学審査にも関わっているようです。先日の義妹の結婚式でフロリダに3日程滞在の間、義弟にも話を聞いてみる機会がありました。
 
ということで今日は、昨今の米国トップ大学の入学審査とアジア人、そして義弟と話した「これから求められる人材」についてまとめます!
 
 
 

「完璧な学業成績や業績」を持つアジア人がトップ大学を不合格になった事例

例えば、この『エコノミスト』の記事(*1) に登場する、カリフォルニア州のマイケル・ワングさんの事例をみてみましょう。
 
高校の成績1002人中2番、ACT36(最高点)、オバマ大統領就任式で歌い、ピアノコンテスト全米3位、全米数学競技会トップ150位内、いくつかのディベート競技会のファイナリスト、といった「輝かしい業績」にもかかわらず、アイビーリーグ大学7校の内6校を不合格になったといいます。
 
これでダメなら一体誰が入学審査パスできるの?といった業績ですよね。
 
こうして「完璧なレジメ」を持ちながら、大学入学審査不合格となったワングさんのようなアジア人家族が団結し、大学相手に「人種差別」として、昨今、訴訟を起こし始めています。
 
 
 
 
 

訴訟への大学側の説明

そこで、大学側がこうした訴訟問題への説明として用いるのが、「入学審査は、『ホーリスティック』な見方に基づいています」というもの。「人種」は、考慮される「様々な要素の中のひとつ」であり、スポーツなどの課外活動、コミュニティーへの貢献、貧困や困難の克服など、志願者個々人を様々な面から審査していると言います。
 
例えば、「教育省市民権オフィス(The Education Department’s Office for Civil Rights)」により「入学審査に人種差別はなかった」と結論付けられたプリンストン大学の事例を見てみます:
 
2010年の入学申請者の内、人種に関わらず、クラスで成績トップ(valedictorians)の学生の82パーセント、そしてSAT満点(2400)の学生の50パーセントが不合格になっているとのこと。逆に、成績やSATスコアが低めであっても、スポーツや課外活動での活躍、貧困環境を克服して学業に励んだなどの学習背景持つアジア人学生の入学が許可されているといいます。
 
つまり、プリンストン大学側の説明としては、アジア人であっても、他の人種の学生同様に、様々な面を考慮に入れ審査されているということですね。
 
 
 
 
 

大学側の言う「ホーリスティックな審査」に含まれるもの

この「様々な面を考慮に入れた『ホーリスティック』な審査」というのは、私立大学では、「親か祖父母がその大学の卒業生」(15%程の入学枠)だったり、「多額の寄付金を出せる」といったことも、考慮されます。つまりアカデミックが「まあまあ」だろうと、親族が新しい校舎を建てられるくらいお金があるならば、子息は入学許可されるわけです。そして、これらのほとんどが白人といいます。
 
まあ、日本だったら「そんな不公平な!」となり、ちょっと考えられないわけですが、私立ですし、あくまでも「大学側の主観というか都合」が優先されるわけですね。そしてこうした富裕層による寄付金が、何千万という学費を払えない学生への補助金にもなり、「経済的な多様性」も可能になるという仕組みが成り立ってます。
 
実際、アイビーリーグなどの私立は、親の年収が1000万円以下ならば、学費が全て無料になるんです。
 
 
また、一定の「アフリカンアメリカン」や「ヒスパニック」枠も考慮されています。「アファーマティブアクション(affirmative action)」と呼ばれるものですが、アフリカンアメリカンとヒスパニックの場合、この枠があることで、学業成績や業績などを「公平」に審査したのみでは入学が難しい学生でも、入学が認められます。
 
ところがアジア人の場合、「模範的少数者」と呼ばれるように、「ハイアチーバー率」が高いため、枠組みがない方がむしろ有利になるわけです。
 
アジア人は、入学審査に必要なSATで、ヒスパニックより320点、アフリカンアメリカンより450点高い点数を取る必要があるというデータもあったりします。(*2)
ということで、アカデミックに秀でたアジア人の子に残されたスポットは少なく、目もくらむような業績を持つアジア人同士で、熾烈な競争が強いられる、という状況になっているんですね。
 
 
 
 
 

では、「人種」を考慮しないとどうなるか?

カリフォルニア州では、入学審査で「人種」を考慮することを禁じています。
 
するとどうなるかというと、このエコノミストのグラフ、とても分かりやすいです。
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(‘The model minority is losing patience’Economistより)
カリフォルニア州にある全米トップ大学のひとつ「カルテック」では、学生の半数近く(40%以上) !をアジア人が占めているんです。
 
一方、アイビーリーグのグラフを見ると、全人口に占めるアジア人人口がめきめきと増えている中でも、アジア人入学許可人数は過去23年間、横ばい。
 
人種を考慮しないならば、アイビーリーグのキャンパスを歩く学生の半数近くが、アジア人ともなり得るんですね。
 
 
 
 
 

なぜアジア人は学業面に秀でているの?

これはもう、私自身身近な周りを見ても明らかなんですが、アジア人の子は、周りの子がやんちゃに遊んでいる間も、こつこつこつこつと机に向かっていたり、ピアノやバイオリンの練習に勤しんだりしてるんですよね。
 
エコノミストの記事によるとこんな調査結果もあります:
 
ニューヨーク市大学のAmy Hsin氏と、ミシガン大学のYu Xie氏が、6000人の白人とアジア人の子供を調査したところ、アジア人の子は白人の子より生まれつき賢いわけでもないとのことです。では何が違うか?というと、「勤勉さ(hardwork)」とのこと。白人の子とアジア人の子を比較すると、学校生活を送るにつれ、「努力の差」が増していくというんです。
 
そして子供達にインタビューしてみると、アジア人の子は、「数学の能力は生まれつきのものではなく『学習されるもの』」と信じていて、親も子供に白人の親よりも高い期待を寄せているとのこと。一方白人の子は、「能力は生まれつきだから」と信じてる子が多いとのこと。それでなかなか「努力」にも結び付かなかったりするんですね。
 
確かに、周りを見回しても、多くのアジア人以外のアメリカン人は、「生まれ持った才能」というような考え方をしがちです。「ギフテッド」というコンセプトもそうですね。アジア人の方々は、ギフテッドプログラムに子供を入れるために、「努力」するわけです。それでも、こちらの方々は、「能力は生まれつき」だからと手をかけないことも多い。
 
私自身は、まあ当たり前ですが、能力は生まれつきのものと環境とが絡み合って伸びていく、と思っています。
 
 
 
 
 

ネットワークのトップに食い込めていないアジア人

こうして学業的に明らかに優れた成果をあげているアジア人、それでもエコノミストの記事によると、ビジネス界や政界や法曹界のトップに占める人口は少ないとされています。国を中枢から動かすネットワークに、アジア人は、食い込めていないというんですね。
「bamboo ceiling(竹の天井)」と呼ばれる現象だそうです。地位が上になるつれ、専門家(27%)、マネージャー(19%)、社長(14%)と、アジア人人口が減っていく。
 
アカデミック界でも、アジア人の教授はたくさんいるわけですが、米国の3000の大学を見ると、学長になっているのは10人以下。
 
議会(113th congress)でも、アジア人が占めるのは2.4%だそうです。
 
 
 
 
 

ネットワークに食い込めないのはアジア人としての性質や文化背景も大きい?

「何かがアジア人をシャイにしている」
 
「エンジニアはnerd(オタク)が多いわけだけれど、そう自覚するグループの中でも、アジア人はもっとnerd」
 
「謙虚であるよう育てられてきたんです。静かに、波を立てず、チームの一員であるよう教えられてきました。それでも、ビジネス界では、警笛を鳴らし音を立てることを学ばなければならない。」
 
「議論するな。権威に矛盾してはならない。そういった儒教的な自然の秩序を学んできた」
 
などなど、前線で活躍する著名なアジア人の声。
これはホントとてもよく分かります。こちら、クリティカル思考活発に、「大きな声出したもの勝ち」的な風潮がありますから。
 
「法曹界トップのリクルーターは、トップ大学のチームスポーツでの業績をまずはみるため、アジア人は目に留まらないことになる」という声もあるようです。確かに、体格のずば抜けたマッチョなチームメートに囲まれ、大きな声と態度で和気あいあいとチームの一員として活躍するというのは、多くのアジア人にとってはちょっとチャレンジングかもしれませんね。
 
 
 
 
 

各界のリーダー層を占めるトップ大学卒業者

また、各界のリーダー層を占めるのがトップ大学卒業者であるため、大学入学審査の段階で拒否されるようならば、ますます、アジア人がネットワークに食い込むのが難しくなってしまうと危惧する声もあるようです。
 
過去、ユダヤ人とアイビーリーグ大学について調べたJerome Karabel’s氏によると、「アイビーリーグがユダヤ人への差別を止めたときに、ユダヤ人は政治的な力を得るようになった」とのこと。
 
エコノミスト記事の最後には、「有望なアジア人学生が大学を不合格になるといった事象により、アジア人に火がつき、政治的によりはっきりと主張するようになるかもしれない」とあります。
 
 
 
 
 

アジアの中に多様な能力を伸ばしていきたいですね

 
こう書いてきてもホント、「アジア人」と一言でいっても、内にいる側としては、いかに「多様」かを思います。アジア人の中にも、アジア人という「ステレオタイプ」からはずれた能力って、たくさんありますから。
 
一般的なアジア人の特徴とされる「勤勉さ」を生かしつつ、オタクを極め、細やかでありつつ、それらの良さを架け橋として繋げられる人材、創造性や大胆さ、外交術や政治力に秀でた人材も養成していく。そうして互いの得手不得手を理解しつつ、多様な才能を合わせられたら。
 
これから世界という舞台で日本が立ち回っていくためにも、皆が皆、机に向かって「いい点」をとることを目指すというシステムから、今後、ひとりひとりの特性をより伸ばしていくような「多様な学習」のあり方を実現する必要がますます高まる、そうひしひしと感じています。
 
 
 
 
 

こうした昨今の米国大学入試状況を踏まえつつ、義弟に話を聞いてみました!

 

最近のトップ大学入学審査ってどうなってるわけ?

私:今のアメリカのトップ大学への入学は、まるで「宝くじ」のようじゃない?
 
完璧な成績やスコア、数々のコンテストへの入賞、なおかつスポーツチームのキャプテンというような生徒も、入学審査をパスできなかったという例をいくつか聞いている。
 
 
義弟:アカデミックな成績やスコアは、確かに考慮される重要な要素なのだけれど、大学が求めているのは、「勉強ができる子」だけじゃないから。教えているクラスにもね、勉強ができるというわけじゃないのに、どうして?というような子がいたりするんだけど、そういう学生は、とても面白い発想を持っていることがある。
 
例えば、話を聞いてみると、音楽とコンピューターが大好きで、高校時代にコンピュータで音楽を奏でる「コード」を自ら発明したとかね。
 
勉強がよくできる子を選ぶと同時に、それとは別に、独特な才能や創造性やリーダーシップなど他の側面に秀でた子や可能性のある子も見ていくんだよ。
 
あと、アカデミックなスコアだけ見るのなら、アジア人で占められてしまうからね。かつてユダヤ人が同じような状況にあったようにね。「人種的な多様性」も見ていく必要がある。
 
 
私:アカデミックに秀でているだけでなく、異なる特性を持った学生を集めるということね。
 
 
義弟:アカデミックに優れた子ももちろん必要とされるわけだけれど、大胆な発想で切り開いていく子、創造力溢れる子、周りを引き上げ導いていく子、そして異なる文化的な価値観を持つ子も必要。多様な才能が合わさることで、世界はより豊かに成長していく。
 
 
 

親として何ができると思う?

私:うん、とてもよく分かる。○○(義弟)も息子君を持つ親だけれど、では、これからを生きる子供を育てる親として、何ができると思う?
 
 
義弟:親はね、目の前の成績をよくしないと!スコアを上げないと!と必死になるわけだけれど、もっと長い目でみないといけないんだよ。大学が欲しいのは、「やらされて従う子」じゃなくて、「自らパッションを持ち自主的に動いていく子」。やらされて成績やスコアがよくても、長い目で見るのなら続きやしない
 
 
私:やる気に溢れ自主的に動いていく子なら、もし困難にぶつかっても、自ら工夫して進んでいくだろうね。
 
 
義弟:大人が思う「いい成績をおさめ、いい大学に入るなら、いい就職先が見つかって、お金も稼げる」なんて言葉をかけても、子供の自主的なやる気は育ちやしない。とにかく、その子自身の興味に火をつけることだね。例えばね、何かを作るのが好きで、いつか本当に飛ぶロケットを作ってみたいという一心で、突き進んでいる学生を知っているけど、そういった興味へのパッションを培っていく。トップの大学が求めているのはそういった「自主的なやる気に溢れた人材」であり、それは、世界が必要としている人材とも言えるのじゃないかな。
 
 
 
 
 

思うに

米国のこうしたトップの私立大学の入学審査では、「大学側の主観」が大いに反映され、そのため、「宝くじ」や「不公平」といった見方もされます。それでも義弟の話を聞く限りでは、大学の持つ「多様な能力や価値観を合わせ未来の世界を創りだす人材を輩出する」といった「ホーリスティック」なビジョンに、なるほどね、と納得でした。
 
また、こうしたトップ大学を受ける側も、たとえ「不合格」となっても、自分の能力がどうこうと落ち込むより、あくまでも「大学側の主観や都合」が大きいということを思い出し、前を向いて進んでいけばいいのでしょう。国の各界のトップ層はトップ大学卒業者が占めているという事実は確かにあるのでしょう、そしてそうしたネットワークに入っている方と話していると、何が何でもトップ大学に子供を入れないと、という気持ちがひしひしと伝わってきます。
 
でもまあ、こうした大学の入学審査を通らないとしても、「自主的なやる気に溢れ」やりがいのある道を見出していくことは、いくらだってできる、くらいの気持ちでいいのじゃないかな、そう思っています。パッション溢れやりたいことを探求しやりたいことを仕事にする、それを可能にするための専門技能を身に着ける場は、トップ大学も含まれるでしょうが、そこに限られるわけではないでしょう。
 
あと2年もすれば、次々と高校を卒業し新しい道を歩いていく子供達。それぞれ、将来こういうことしたいなあ、というビジョンがあるようです。それぞれの歩みの中で、その子その子にとっての最善の道が見出されていく、そう信じています。
 
 
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久しぶりに会い話のつきない長男と義弟の息子君
 
 
いずれにしても、「パッション溢れ自主的に動いていく子」、これからの世界では、ますますこうした人材が求められる、それは確かにそうなのだろう、そう思います。皆が同じ方向を向き一斉に同じことことを「やらされる」よりも、子供達ひとりひとりが自らの好奇心や自主性をじっくりと育める教育環境が充実していくことを願っています!
 
 
それでは皆様、初夏の日々をお楽しみください!
 
 
 
参考資料:
(*1) ‘The model minority is losing patience’Economist http://www.economist.com/news/briefing/21669595-asian-americans-are-united-states-most-successful-minority-they-are-complaining-ever
 
(*2) https://www.insidehighered.com/news/2015/09/24/ocr-clears-princeton-anti-asian-discrimination-admissions
 
(*3) Espenshade, T. J., & Radford, A. W. (2009). No longer separate, not yet equal: Race and class in elite college admission and campus life. Princeton, NJ: Princeton University Press
 
 
 

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